生命保険協会【生命保険と私】エッセイ集より
右下肢の痛みを、湿布薬とマッサージでとりあえず治療し休まず勤めていた夫が、勤務先の学校で突然歩けなくなり、救急病院に担ぎこまれたのは、十月半ばの夜だった。
その三週間ほど前、生徒を連れて山登りをしたための筋肉痛ぐらいと考えていたのが、実は糖尿病からくる動脈閉塞で、この時は人工の動脈を埋めて一応の危機を脱した。しかし退院間近の検査で、食道部分に悪性腫瘍が進行していることを医師から告げられた。夫は不本意に去った職場にもう一度戻り、職責を全うしたい一念で、食道嫡出の手術に耐え、骨と皮の体で病魔とも闘ったのだが、一年後遂に力尽き、五十八歳の生涯を閉じた。
K生命保険会社の人が私の家に訪れたのは、寄る辺を喪くし、崩れそうになる心と体に鞭打って日を過ごしている頃だったと思う。
「校長先生には大変優しくしていただいて」娘と年格好の似たその人は、涙にうるむ目を夫の遺影と私に、交互に向けて語り始めた。
話によると、保険の営業で学校を訪間した時など、たまたま居合わせた夫は、温かい心遣いを見せ、やさしく労ってくれたという。また、どんな人からも頼まれるとむげに断わりきれず、乏しい小遣いから保険料を捻出していたことも何度かあったらしい。
他界して八年になるが、保険会社の人達は未だに故人を悼み、挫けそうになる私を慰め励ましてくれる。これこそ夫が私に贈ってくれた「大きな遺産」であると思う。
与えられた命を営々と生き、その果てに結果として死があるなら、それは静かに受け容れたい、いや受け容れなければならないだろう。しかし死は往々にして突然である。息子は脳腫瘍で呆気なく死んだ。八才であった。兼好法師の言葉通り、死はうしろからやってきたのである。
その数年前、「ひとつの常識」といった程度の感覚で家族型の生命保険に入っていた。が、子どもの死によってもたらされた「死亡保険金」なるものは虚しかった。その時の私にとっては何の意味もなく、価値もなかった。親が子に残すならいい。逆はやりきれない。唇を噛みしめるばかりであった。
しかし時間はゆっくりと流れ、少しずつ私を立ち直らせた。考えを変えようと思うようになった。息子のお金は、私の周りで困っている人をわずかながら救うことができた。初めて喜びが生まれた。また、息子の通っていた小学校に贈らせて頂いた本は図書室の一角に並べられ、「あゆみ文庫」と名付けられた。息子の名を付けて下さったのは先生方全員の御心と知り、素直に有り難く御受けした。
あれから十年の歳月が流れたが、私はいつも心静かに息子と向かい合うことができる。
息子が、私の選択をよろこんでいてくれると確信するからである。
悪戦苦闘の末、ついにタバコをやめました。
ときどき夢の中で吸っていることがあるけどね…
カラオケ・スナックもとんとごぶさたです。
会社ではつき合いが悪くなったと噂していることでしょう…
ゴルフバッグも長いことほこりをかぶったままです。
パターはかなり上達しました。部屋で練習しているからね…
こうして僕の楽しみは、
次々に取り上げられてしまいました。
それも、これも、みんなきみのせいです。
オギャー、と生まれてきたきみのね。
でも、それでいい。
僕の腕の中ですやすや眠っているきみから
ドキ、ドキ、ドキって鼓動が伝わってきたときつくづく思いました。
どんなことがあってもこの命を守らなければと…
あれもこれもやめてしまったけれど、
ひとつだけ始めたことがあります。
生命保険。
これだけは、誰がなんと言おうと。
やめないぞ。
キミのためだもの。
「気をつけて行ってらっしゃい」
数ヶ月ぶりに帰宅した夫の車が、速度を増して遠ざかっていく。こんな小さな別れでも感傷的になる自分を横目に、子供達はさっさと家の中へと入ってしまった。
単身赴任の夫がいたニ日間に彼の生活の様子を聞き、子供の教育の事を相談し、ついでに私の愚痴もと勢い込んでいたのに 「我家はやっぱりいいなぁ、落ち着くよ」 の大声に待ち構えていた言葉が、かき消されてしまった。
持たせた弁当の後片付をしながら十五年間共有してきた時間の早さに改めて驚いた。
それまでと同様に、今回も家族で移り住んだ方が賢明な選択だったかもしれないが、成長した子供達の事情も考慮に入れた結論だった。
かまどが二つになり余裕のない暮らしに保険料は重く伸し掛かるが、家族一人一人の命の輝きに比べれば取るに足りない事と割り切れる。それに生命保険の安心感は、健康で明るい人生を願う愛情に裏付けられたものが根底にあるから得られると信じたい。
とは言っても人生に夫婦喧嘩は付きもの、喧嘩の度に上品なケースに入った夫の保険証券を見ては、ほくそえむ時があったとしても、楽しい人生だったと言えるその日まで思いやりを忘れずにいたい。
夫の車はもう峠を越えただろうか…と思い、あわてて神棚に向かう私だった。